日本における民族音楽研究第一人者のエッセイ・講演録・対談をまとめたものです
本書収録「自然民族における音楽の発展」という講演録において
"リズムは人間だけのものか?"という問題提起に沿って話は進んでゆく中で
バリ島のカエルが出て来ます
バリ島のカエルは"ボーン ボーン"という声で鳴くらしくリズムがとりやすいからか
あらかじめ録音したカエルの鳴き声をテープで流すとそれに合わせて鳴こうとし
テープを止めると鳴きやんでしまうそうです
つまり
一緒に音楽を鳴らしたいという願望はバリ島のカエルにも存在することになるわけですが
途中でところどころズレが生じてきてしまい
リズムを合わせるという感覚を獲得していないということがわかってしまうわけです
では人間ならば必ずリズムを合わせることができるのかというと
それは結論の急ぎ過ぎで
それを検証する例としてエスキモーを挙げています
鹿を捕って暮らすカナダのカリブー・エスキモーが
金たらいをたたきながら1人で歌っているテープを聞くと
自分の歌声にリズムが合わせられないのがわかるそうです
エスキモーがリズムを習得していないという話は一部で知れ渡っているそうですが
それがエスキモー全てに当てはまる話ではないということを
今度はアラスカの鯨エスキモーを例にとり説明されているのですが
鯨を捕るときに歌う歌を録音すると 歌と太鼓の拍子がピッタリ合っていたそうです
さらに驚くことに
"今のは失敗だから消してくれ" と
エスキモーから録り直しを要求されたとのこと
帰国して "失敗" と言われたテープを聞き直してみると
たしかにリズムがほんのわずかズレていたそうです
つまり エスキモー=リズム感がない というのは間違いだったわけです
このふたつのエスキモーの違いはどこから来るのでしょうか?
"いっしょにごはんを食べるために、食糧を獲得するために働かなければならない"
という"共同社会"
に 違いが生じる原因があると仮説を立てています
リズムが取れなかったカリブー・エスキモーは1人で狩猟に出かけるのに対し
鯨エスキモーは捕鯨の息を合わせるために歌う慣習がある
どうやらそこにリズム感の致命的な差が生じるのではないか?と考えるわけです
仮説を裏付けるためにスリランカのベッダという種族の例なども出て来ますが
中身に違いはあるものの結論としては鯨エスキモーと同様のものに落ち着いています
ここまでは なるほどなるほど と感心しながら面白く読んでいたのですが
次の一節に 心臓を射抜かれたようなショックを受けました
"そういうふうに考えてみると、私たちが音楽的だと考えていることが、
本当は人間の不幸の始まりかもしれない"
リズムを習得すること="共同社会"を営むことは
私有を巡る争いの始まりでもあるから
"音楽的"=リズム感が良い,リズムを合わせる ということが
果たして人間にとって最も望ましい音楽の形態と本当に言えるのだろうか? という
アイロニカルな問いかけに感じ 身震いさせられる思いがしました
このあとも首狩り族 バリ島のケチャ 沖縄民謡 アフリカの原住民 など
具体的に話が進むわけですが
結論をざっくりと述べてしまえば 音楽のリズムは好き/嫌いではなく
社会や生活とのかかわりの中で形成されてゆくということが書かれているように感じました
自然や民族や社会と音楽との関わりを音楽理論の知識なく楽しく読める論集で
音楽というものを通じまるで世界を旅してるような気分になれる本です
「小泉文夫全集」を理解出来る範囲内で読んでみたくなりました